杉原千畝はなぜユダヤ人を助けたのか? 高山市にイスラエル人が増加している理由も解説!

ど~も、こんにちは、管理人のケイです。

みなさんは杉原千畝という人物を知っていますか?

教科書で一度は名前を聞いたことがあるという人や、ユダヤ人を助けた人というイメージを持つ人が多いと思います。

しかし、なぜ彼はユダヤ人を助けたのか?と聞かれると、答えに窮してしまいます。

今回は、杉原千畝がなぜユダヤ人を助けたのか、そして岐阜県の高山市になぜイスラエル人が観光客として訪れるのかについて解説していきます。

杉原千畝ってどんな人物!?

ここでは、簡単にどんな経歴を辿ってきたのか見ていきましょう。

杉原千畝は、1900年に岐阜県の美濃市で誕生しました。

父親は、税務署に勤務していたようで、少年時代は多くの転校を繰り返しています。

気になる学校の成績は、抜群に良く、オール5も取っていたとされています。

その後、18歳で名門大学の早稲田大学の教育学部英語科に入学しました。

本当に優秀な方ですが、なんと、、、早稲田大学を中退してしまいます!

もったいない感じはしますが、その後にハルビン学院でロシア語を勉強します。

ちょうど第一次世界大戦(1914~1918年)が終わったばかりで、ロシア語の重要性がわかていたのかもしれません。

その後は、外務省の書記生、そして外交官として活躍していきました。

在リトアニア日本領事館に就任!

1939年に、在リトアニア領事館代理に就任します。

この当時の世界状況は、第二次世界大戦がはじまり、ドイツではヒトラー率いるナチ党が政権を握っていました。

そして、ナチ党はユダヤ人に対して弾圧していきます。

多くのユダヤ人がその弾圧から逃れるために、ユダヤ人は世界中に逃げまわりました。

杉原がいた日本領事館にも、多くのユダヤ人が訪れ、通過ビザを発給してほしいと訴えました。

しかし、ビザの発行条件は次の通りになります。

(1) 日本への旅費 (2) 日本での滞在費を持っていること

(3) 避難先の国の入国許可を得ていること など

これを満たしていないものは、ビザの発給は出来ませんでした。

当時の日本政府にも、問い合わせてみたものの、断られてしまいました。

しかし、この規則に逆らって、独断でビザを発給し、ユダヤ人の約6000人を救ったと言われています。

では、なぜ彼は独断でビザを発行したのでしょうか?

杉原がユダヤ人を助けた理由

もし、政府の方針に歯向かえば、外交官としての地位は危うくなる。

また、ユダヤ人にビザを発給すると、今度はナチ党に家族や自分が目をつけられてしまう。

多くの葛藤はあったと思いますが、実際に迫害されて困っている人を見たら、地位や名誉よりも、もっと大切な目の前にある人を助けたい、という理由があったのでしょう。

後日談で、杉原千畝の実の息子が、次のように語っています。

自分が信じること、信念、正義を貫くことが杉原千畝です。非常に人間として頑固ですが、一度思ったことは必ずやり遂げる。一度言ったことは必ず守る。そういう昔のサムライというか古武士。そんな人間でした。

logmi 杉原千畝はなぜユダヤ人を助けたか? 実の息子が明かす、偉人が貫いたサムライ魂より引用

岐阜県にイスラエル人が集まる理由

ここ数年、イスラエル人が岐阜県に集まっており、その数は約1万人以上に上ります。

その理由は、杉原千畝の記念館があるからなんですね。

1985年にイスラエル政府が送った称号で、ヘブライ語で、「カッシードウンモーターラム」、日本語で「国にとって勇敢な人」という意味で、杉原に感謝し、その跡地を巡りたいと訪れているようです。

実際に、市の案内所にはヘブライ語でもパンフレットがあります。

終わりに

日本政府にとっては、政府の方針に逆らったため、杉原千畝は戦後あまり英雄扱いされたわけではありません。

しかし、リトアニアには「スギハラ通り」、イスラエルからは「東洋のシンドラー」と呼ばれ、世界からは称賛されました。

※シンドラーとは、時を同じくしてユダヤ人を救った人物の名前

日本は、2014年になってようやく公式の名誉回復がなされました。

「純粋に人を救いたい」という思いが、世界を変え、今もなお世界に影響を与え続けています。、

彼の外交官としての想いや行動は、きっと今後も語られていくことでしょうね。

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